2015年11月2日更新

江戸時代のペット愛護法?犬公方 徳川綱吉の「生類憐みの令」の驚く内容

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編集部

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犬を保護する政策で犬高公方とも呼ばれた徳川幕府5代将軍綱吉。歴史の教科書には必ず登場しますので、知っている人も多いことでしょう。人間より犬を大事にし人々を苦しめた将軍というイメージがある綱吉ですが、もともと「生類憐れみの令」は命を大切にし、家畜や動物を管理する先駆的な政策だったという見方もあるのです。今回は江戸時代のペット愛護法「生類憐れみの令」についてご紹介しましょう。

 

「生類憐れみの令」ができたきっかけは?

「生類憐れみの令」が生まれたきっかけについての説はいろいろありますが、有名なものは息子徳松を満5歳で亡くし、その後男子に恵まれなかった綱吉が願掛けで作ったという説です。

綱吉が信頼していた僧侶隆光に「子が生まれないのは前世に殺生を多く行ったからで今世では生類を憐れむように、とりわけ綱吉は戌年なので犬を大切にするように」と進言されたことがきっかけで「生類憐れみの令」が始まったのだそうです。しかしながらこの説は史実に相反する点もあり、今でははっきりしたきっかけはよく分かっていません。

「生類憐れみの令」はどんな政策だったの?

「生類憐れみの令」はひとつの法令ではなく時を経て次々と発令されて130もの法令がありました。また、犬だけを大切にする内容ではなく、保護対象は猫、馬、虫、魚、鶏にまで及んでいました。

最初の法令は貞享2年に出されましたが「将軍通行の際に犬や猫が路上に出てきても差し支えないので繋ぎ止めなくて良い」という人にとっても動物にとっても有り難い内容でした。同年9月に以降には馬を大切にする法令が出され、家畜としての馬や牛を病気になっただけで捨てる行為を禁じました。

その後、鷹狩りの禁止、食料としての魚、鶏、うなぎ、どじょうなどの売り買いの禁止、動物に芸を仕込んで見世物にする行為の禁止など、法令の内容はエスカレートしてきます。

特に犬に関しては殺生だけでなく不可抗力の事故や犬の死産などについても罪を問われました。野良犬を牛車や大八車でひき殺したり、しつけで怒ったりすることもできず犬に危害を加えたと判断されれば街ぐるみで処分されたそうです。

 

東京都中野にあった広大な犬の保護施設

あまり知られていませんが、野犬の収容のために喜多見や四谷、大久保に2万坪~3万坪の大きな犬舎を建設したのも綱吉の政策の一環でした。中でも広大なのは総工費約20万両を掛けて作られた中野の犬舎。敷地面積16万坪、敷地内には25坪ずつの犬小屋が290棟という大規模な犬舎だったというから驚きです。

犬はこの犬舎で1頭につき白米3号、10頭につき味噌500目、干いわし1升が与えられていました。中野の犬舎はその後も拡張と続け数年後には29万坪、100万匹の野犬を収納する施設になったのだそうですが、自由気ままな野良生活から白米中心の犬舎での暮らしに変わり体調不良の犬が続出したというのは皮肉な話です。

考え方は先駆的だった「生類憐れみの令」

「生類憐れみの令」は宝永6年に綱吉が亡くなると6代将軍家宣によってただちに廃止され江戸の街は以前の状態に戻りました。「人と同じように生き物を大切にする」という綱吉の当初の発想は評価できるものでしたが、法令の内容が徐々にエスカレートし間違った解釈もされるようになって人々を苦しめる悪例として語り継がれるようになってしまいました。ただし野犬を保護施設に入れ、犬、猫、馬、牛などの動物の飼い主を登録させた制度などは世界に先駆ける画期的な内容だったと考える向きもあります。いずれにせよ、ペット愛護の法令が欧米に先駆け江戸時代にあったことは評価できるかもしれません。

 
 

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